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花の丘公園より 高遠の城下町 長野県伊那市(旧高遠町)西高遠 高遠は桜の綺麗な城下町である。緑の山に囲まれた盆地です。 古くから伊那谷の要所であった高遠城は、武田方仁科五郎盛信と織田 信忠の攻防を最後に戦乱の時代に幕を閉じました。 明治4年(1871)廃藩置県となり、翌5年高遠城の建物は民間に払い下げられ、旧藩士達が桜の馬場から桜を移植した城跡は、 明治8年(1875)城址公園となりました。 高遠城跡公園から車で約5分、山の中腹に開けたところに「花の丘公園」があります。 「高遠城跡公園」の桜が散り、次に「花の丘公園」の桜が開花します。 |
高遠町西高遠権現山鉾持神社長野県上伊那郡高遠町大字西高遠鉾持1600 鉾持神社は、平安時代に源重之が信濃守としてこの地を訪れた際に勧請されたもので、文治元年にこの地に移されたものという。 この時に、土の中から「鉾(ほこ)」が出てきたことから、鉾持という名が付き、その鉾をご神体として奉られ現在に至っている。 高遠藩の鎮守として、養老五年に小治田宅持が伊豆、箱根、三島から三社を勧請、町の西部にある権現山に創祀しました。 とても長い石段が設けられ最下段の脇には手水舎、2つの鳥居を潜り、上部へ向かって石段が伸びます。 非常に階数が多いので、上りきるのはとても大変です。 (上がったら下がります・・膝がカクカクします) 長い石段を上りきったように感じる、その先には20段ほどの石段が設けられており、その上には朱に塗られた塀で囲われた拝殿が建っている。 そこまでの広い空間から囲われ閉ざされた空間への変化は静かで木々のこすれる音がします。 写真は拝殿横の小さなお社です。雨上がりの緑にきれいな光が差し込んでいます。 高遠の歴史 高遠城は、この地方の名族・諏訪氏の一族である高遠氏が居城としていたが、天文14年(1545)4月、武田信玄の大軍が杖突峠を越えて高遠城を取り囲み、高遠氏七代頼継は自ら城を開いて降伏した。 ・武田信玄は高遠城を伊那地方への進出の拠点とするため、天文16年(1547)、山本勘助、秋山信友に命じて信玄流城構えの技法を 駆使した大規模な改築を行ない、秋山信友らを城主とした。 ・永禄5年(1562)には武田勝頼が城主となったが、元亀元年(1570)武田信玄は勝頼を自分の後継者として甲斐に戻らせ、 信玄の弟信廉が城主となる。 ・次いで天正9年(1581)には勝頼の弟の仁科盛信が高遠城主となるが、翌天正10年(1582)年2月、織田信長は信玄亡き後の 武田氏を一気加勢に攻め滅ぼすため、長男信忠に5万の大軍を与えて高遠城に迫らせた。 高遠城に籠もる城兵の数は3千。 織田信忠の降伏勧告を退けて、仁科盛信を先頭に奮戦するもむなしく、凄惨な戦いのすえ全員が玉砕して落城した。 武田勝頼が天目山で自刃し、武田氏が滅びたのは、この合戦の9日後のことである。 織田氏の支配のもと、高遠城攻めに功のあった毛利秀頼が城主となるが、そのわずか3ヵ月後に本能寺の変が起こり、 高遠城に突如木曽義昌が攻め込み、占領した。 以後、徳川家康と木曽義昌の攻防の舞台となるが、結局、家康によって木曽義昌は高遠城を追われて深志城(松本城)に撤退した。 徳川の時代となると、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主は交代したが、元禄4年(1691)内藤清枚(きよかず)が3万3千石で入封。 以後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎える。 |
花の丘公園の八重桜公園には八重桜500本と他3,000本余の桜が植樹されおり、約100種類の八重桜がが時をずらして咲きます。 小雨にぬれる八重桜。足元はピンクの厚手の絨毯です。 華やかで力強い花です。 信州高遠は新宿西口より高速バスで3時間30分。ハイウェイバスドットコム バスの中はトイレもあり、まとまって座ればお喋りも飲み物もはずみます。 (周囲のお客様に充分な配慮が必要です) |